常磐小沿革

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- 明治時代 -

常磐小学校開校百周年記念誌『常磐木』より

班渓~常磐の教育百年史

開拓時代 明治26年(1893)~

  今から104年前の明治26年3月、パンケホロナイ川の右岸に「下班渓」の歌志内の商人で山形県人佐藤伝次郎氏(当時30歳位)が経営不振のため、商業に見切りをつけて、まだ残雪の厚い下班渓に新天地を求めて単身で移住した。
 先ず、ささやかな掘っ立て小屋を建て、かげ ろうの立ちのぼる早春の大地に開墾の鍬を打ち下ろした。これが芦別における最初の入植であり、「常磐」が芦別発祥の地たる由来である。佐藤伝次郎氏は、翌 年、団体で入植した人々とは違い、単身で開墾に従事したので、広い原野に訪れる人も無く、粗末な小屋での一人暮らしは創造を絶するものがあったと思われ る。
 背丈以上もある笹を切り、大木を倒して焼 き、鍬を降ろして種をまく。馬も道具も無く、全て手で切り開く以外はなかったので苦労は多く、開拓は思うようにはかどらなかった。「開拓先駆者」の孤独な 苦闘の年は明け、翌27年に沢口期一氏が移民団体68戸三百余名を率いて下班渓と次郎島に移植し、にわかに活況を呈するようになった。

(1)信仰と子弟の教育

 入植した68戸の開拓者達は終日苦難と戦い 開拓に従事するが、日常の生活で信仰心を忘れることはなかった。そのような中で説教所について話題になり、同時に子弟の教育についても話題となった。その ころ、歌志内の安楽寺の住職相河存成氏が布教のため往来するようになった。 しかし、月に幾度も来ることができず、相河了瑞氏が在住することとなった。

(2)お寺と学校を兼ねた草小屋

 相河了瑞氏が在住することになると、なんとかして寺を建てたいという声が上がり、一方、子弟の教育を考え学校を建てたいという声が高まった。しかし、一度に寺と学校とを建てることは費用の面その他で全く無理であった。
 やがて相談の結果、土地は提供し労力は奉仕 で、寺と学校を兼ねた建物を建てることとなった。それは四間に16坪(約53平方メートル)という丸太を組んでの草小屋であった。明治27年(1894) の10月5日、熱血の青年僧、相河了瑞(19歳)を迎え、安楽寺説教所として開設、続いて10月7日、同氏により待望の教育が始まったのである。 

寺子屋時代 明治27年(1894)~

 こうして開所した説教所兼教育所(寺子屋)が光明寺の前身であり、また簡易教育所、そして小学校へと発展して来たところが常磐小学校の始まりであり、芦別教育発祥の起源である。したがって常磐小学校が芦別で歴史が一番古く、芦別教育や文化の発祥地になるのである。
 説教所で寺子屋教育が始まった当時は児童数 が30数名であった。年齢はまちまちで一年生、二年生、三年生と順を追って少ない人数であり、四年生が最高学年であった。開校と同時に二年生や三年生がい たのは、児童の中には本州にいたこと、すでに小学校へ通学した者がいたからである。

私立教育所時代 明治29年(1896)~

 寺子屋では「読み書きソロバン」が主であったが、教材教具が不備で全員が同じ教材でそろって授業を受けるようにはならなかった。
 郷里の富山や石川県ですでに小学校の教育を 受けた子どもも多かったので、いつまでも私設の寺子屋ではなく、お上の予算で公立教育所にしたいと考えた相河了瑞氏は、部落の人々に働きかけ村役場へしば しば足を運んだ。何度も許可申請書を提出したがなかなか認可されなかった。しかし、根気よく運動を続けた結果、ついに明治29年(1896)私立班渓簡易 教育所設立の認可が下りた。この年五月初めから工事が進められた。
 校地は北海道庁より未払下げ地一町二反歩 (3600坪、1.2ヘクタール)を借り受けた。場所は現在の干場氏の赤レンガ倉庫付近で、校舎は間口九間、奥行き三間と玄関1.5間四方の29.5坪 (97.5平方メートル)とささやかな建物であったが、建築費の全額は両部落住民の寄付によって賄った。学校の維持費は授業料をもって当てることとし、初 代校長は寺子屋時代から引き継いで相河了瑞氏が就任した。9月20日に落成式を行い10月3日から授業開始。この時の入学児童は男女合わせて32名であっ た。
 相河氏の記録によれば、教育所の備品として黒板1枚、黒板ふき1個、チョーク3本、教員テーブル1脚、生徒用テーブルとベンチがそれぞれ20脚、木製火ばち用三徳1個、火ばし1連であったという。
 また、筆や硯等の学用品を持っている者は 3~4名しかいなく、授業は非常に困難であった。この実情を当時、歌志内小学校長であった工藤謙治先生に話したところ、同校生徒の持っていた古い教科書や 筆、硯、石板や石筆等を集めて提供してくれ、またチョークや用紙などを沢山分けてくれたので、大変助かり、相河氏はその感謝は忘れないと『開校50周年記 念式典』の中で述べている。

公立教育所時代 明治32年(1899)~

 教育の基盤はしだいに築かれ、明治32年 (1899)5月4日、公立班渓簡易教育所となった。この頃は両部落とも開拓はかなり進み、28・9年頃から、西村・内・兜谷氏等が溜め池を造り、水稲の 試作を始めていた(現在の福住町)。それからやや遅れて下班渓でも水稲の試作が始まり、商品作物の収穫量も次第に増えてきていた。また、道路も広くなり、 富田氏の渡り船を利用して人や荷物の運搬が始まった。公立になった教育所の第二代校長は吉村駒吉先生である。
 当時の児童数は50名を超し、明治40年になると100名にもなり、すでに簡易教育所でなく教師を増やして小学校にしてほしいという熱心な運動が始まった。

尋常小学校時代 明治40年(1907)~

 開拓が進み児童数も増加したので、明治39年(1906)12月に教育所から小学校に昇格することが認可された。また、今まで四年生であった小学校が翌明治40年(1907)に義務教育となり、六年制に延長された。
 明治40年11月26日班渓尋常小学校の新 校舎が落成し、開校式を行った。この時の校長は、第三代校長宮野端樹先生であった。新校舎の位置は、班渓の東端から次郎島の西端までほぼ中央に位置する現 在地がえらばれた。校地は吉田外次郎から、5反(1500坪、0.5ヘクタール)が寄付され、建築費などの3000余円は芦別村会へ予算の請願をしたが財 政難で取り上げられず、一部は他部落から寄付を受けたが、大半は両部落の住民で負担した。
 校舎は三教室に事務室、宿直室等で総坪数123.5坪(約409平方メートル)の大変立派なものであった。学級は二学級編成で男子60名、女子41名合計101名の児童数であった。
 尋常小学校第一回目の卒業生をだしたのは、 明治43年(1909)度で、男子13名、女子9名の合計25名であった。当時の児童の様子は男子はちゃんちゃんこに筒そでもも引き姿、女子はひざ半分位 の着物に脚半、履物は男女とも夏はげたまたはわらじ、冬はつまごに深ぐつで、学習用具はふろしきに包んで背負って通学した。出席率は90%と高かった。
 農業生産が確立してくると共に児童数も増加し、第四代校長芹川広喜先生の頃は4学級239名、第五代校長生越房一先生の頃には6学級348名にも及んだ。

1894年
10月 5日寺子屋式教育による安楽寺説教所として開校する
1896年
10月 3日班渓簡易教育所(私立)となる
1899年
5月 4日公立に移管される
1907年
11月26日班渓尋常小学校となる

- 大正時代 -

尋常高等小学校時代 大正13年(1924)~

 大正13年(1924)に班渓尋常高等小学校となった。六年間の義務教育を終えた者のうち、中学校や女学校その他の高等学校への進学者は少なく、ほとんどの者が家業を継ぎ、または、就職するというのが地域の実情であった。
 この頃の日本の産業や経済は大きく発展し国 際的に進出していった。このような中で国民全体の教育水準の向上が計られ、高等科二年制が制度として認められて小学校に併置されるようになった。地域の父 母から「子どもを中学校への進学はさせられないが、せめて高等科二年までの教育を受けさせたい。」と強い願いや要求があり、大正13年に高等科の併置が認 められたのである。それまで高等科へ進む生徒は徒歩で下芦別小学校の高等科へ通学していた。地元に高等科ができ、高等科第一回の卒業生は男子5名、女子3 名の合計八名であったが、家計を考え入学をあきらめる者が多かった。また、女性軽視の考えもあってか男子よりは女子の入学は少なかった。
 大正15年(1926)には、小学校6学級 292名。高等科1学級64名で合計356名が在籍していた。第六代校長山崎助太郎先生の頃、昭和7年(1932)には小学校6学級319名、高等科1学 級55名で合計374名を数え、第七代校長岩田正義先生の頃、昭和12年(1937)には小学校320名、高等科2学級80名で合計407名にもなった。 こうして児童数はますます増えてゆき、教室や運動場も増設されていった。昭和15年(1940)には全校児童447名にまで達した。

1924年
4月高等科の配置が決まり班渓尋常高等小学校となる

- 昭和時代 -

国民学校時代  昭和16年(1941)~

 昭和16年(1941)4月、国民学校令が 発令され、班渓国民学校となり、小学校は初等科と呼ぶことになった。第八代校長遠藤義雄先生の頃であり、初等科6学級372名、高等科2学級86名で合計 458名となり、在籍数は昭和16・17・18年と三年間続きの戦前の最高記録となっている。この年(昭和十六年)の十二月八日未明、ハワイ真珠湾の急襲 に始まる悪夢のような太平洋戦争に突入し、文字通り厳格一点張りの軍国主義教育に入っていったのである。
 第九代校長落合信一先生(昭和18年、1943)の時には、芦別青年学校班渓分教所も併置され、校庭で青年学校生徒と銃剣術(男子)や薙刀(女子)の訓練の様子も見られるようになり、男子青年は次々と戦線に招集されていった。
 第十代校長日下部勝道先生の頃、昭和20年(1945)8月15日、ポツダム宣言を受け、第二次世界大戦が終わった。終戦の年には大凶作で食糧不足、そして衣料不足等で物価も非常に上昇し、この年から数年間は生活物資が乏しく、生活面・精神面とも大変な混乱期であった。

小中併置校時代 昭和22年(1947)~

  昭和22年(1947)4月、学制改革で 小学校6年中学校3年の義務教育となり、学校名は班渓小学校となった。また、5月には班渓中学校が誕生し、ここに併置校として班渓小中学校が新学制の下で スタートしたのである。第十代日下部勝道先生の昭和22年に班渓の校章ができた。そして、この年に小学校開校50周年記念式が行われた。
 昭和23年には戦前の教育後援会班渓父母と先生の会(PTA)になり、初代会長には大林唯一氏が就任し、約20年の長きにわたって戦後の混乱期から学校建築、校地拡張、教師不足の解消など、当時の問題解決に町内会長や朝会議員の方々と協力し推進していただいた。
 第十一代校長木村佐一郎先生の頃、昭和30 年(1955)には小学校9学級343名、中学校4学級169名、合計512名を数え、この年の在籍数は常磐校の歴史上最高記録となっている。この間、昭 和27年(1952)9月、芦別町立常磐小中学校と校名を変え、翌昭和28年には芦別市となったため、校名は芦別市立常磐小中学校となった。
 昭和27年新校舎改築の時、基礎部分に入れ る玉石を全校児童生徒で川から運び、その石には名前のほか好きな言葉、願い事などを書き込んで土台を造ったのである。その後の児童生徒数は年々減少した。 第十二代校長中西義雄先生の昭和39年(1964)には、小学校6学級219名、中学校4学級135名、合計354名となり、第十三代校長上野厚真先生の 昭和42年(1967)には272名になった。この年には小学校開校70周年、中学校開校20周年を迎えた。
 第十四代校長入江高明先生の昭和45年 (1970)には235名、第十五代校長林道一先生の昭和51年(1976)には142名になり、第十七代校長中島勇先生の昭和52年(1977)には 136名となった。そして、この年小学校開校80周年、中学校開校30周年の記念式典を挙行し、記念に青空の塔を建立した。

『青空の塔』

IMG_2871.JPG塔についている碑文には「この塔は常磐小中学校開校80・30周年記念事業のひとつとして建てたものです。子どもたちが青く広がる、大空へむかって雄々しく、たくましく伸びるとともに郷土の発展を願い昭和52年度の生徒会前期執行部が命名したものであります。昭和52年9月4日常磐小中学校開校80・30周年記念協賛会」と記されています。

 第十八代校長西田光男先生の昭和55年(1980)には134名、第十九代校長岸下智文先生の昭和59年(1984)には119名であり、第二十代校長木曽昭平先生の昭和62年(1987)には小学校49名、中学校48名、合計97名までに減少した。
 昭和63年(1988)3月、中学校が41年の歴史に終止符を打ち、芦別中学校と統合した。3月13日、卒業式に引き続き、常磐中学校の閉校式と惜別の会が行われたのである。

小学校単置校時代 昭和63年(1988)~

 昭和63年(1988)4月、第21代校長須藤栄松先生を迎え、単置校としての常磐小学校の地域に根ざした教育がスタートを切った。児童数は5学級51名であった。
 常磐・福住両町内会との合同運動会や地域の祖父母を招いての祖父母参観日が実施され、現在まで継続し ている。また、新校舎建築に向け、同年7月には校舎改築期成会が発足し、高澤孝一会長を中心に両町内会の協力を得ながら関係機関への請願や資金作りが始 まった。また、9月には女子ソフトボール部が念願の全道大会へ初出場を果たし、以後6年連続での全道大会出場を果たすこととなる。
 平成2年(1990)2月、新校舎落成を祝う集いを開催、明るく暖かい、そしてワークスペースがある 新校舎の完成を喜び合った。同年6月には新体育館の工事も始まった。同年9月には女子ソフトボール部が全道大会3位になり、学校・地域ともにこの大きな ニュースにわいた。平成3年(1991)2月に新体育館が完成し、2月17日に新体育館改築落成記念式典が盛大に行われた。
 平成3年(1991)4月、第22代校長伊藤勝也先生を迎え、地域に根ざした教育の更なる発展が図ら れ、その一つとしてNewときわ獅子(獅子舞)の創作が始まった。児童数は43名であった。平成4年11月には、この活動が芦別市海賊映画学校の大賞に輝 いた。また、この年の4月から採用の図工科教科書に常磐小学校の作品が掲載され、スポーツに文化にと活躍する常磐の子どもたちの「小さな子どもの大きな 力」が随所に発揮された。
 平成5年(1993)には第23代校長笹尾壽雄先生を迎え、三学級児童数38名であった。同年9月には、常磐町の開基百周年記念式典でNewときわ獅子を披露し、地域と学校が先人の苦労を偲び、百年を祝った。

『タイムカプセル』

IMG_2874.JPG1993年芦別市開基百周年記念簡易保険タイムカプセル横の看板には「常磐小学校開校120周年記念の日に全員で会いましょう」と記されています。

 同年9月、全道へき地複式研究大会の会場校 として図工の授業を公開した。全道各地から集まった先生たちの注目の中、教師と児童の一体化した常磐の教育が披露された。平成6年(1994)9月、福住 町開基百周年式典にNewときわ獅子が参加した。平成7年(1995)3月には、PTAだより『常磐』が全道PTA広報誌コンクールで特選を受賞。子ども たちの活躍に負けじとがんばる父母の活動が評価された。
 平成7年(1995)4月、第24代校長武 都信夫先生が着任、児童数は30名であった。来るべき百周年に向けて、高澤孝一氏を会長に協賛会が発足した。同年11月市PTA連合・中空知PTA連合の 研究大会にNewときわ獅子が参加した。平成8年(1996)には、百周年に向けた動きも本格化し、記念標語「ありがとう百年、大きな未来へ」の言葉の 下、シンボルマーク作成や各種看板の制作及び設置がなされた。一方、全道大会に6年連続出場を果たすなどの輝かしい歴史を誇る女子ソフトボール部が児童数 の減少でチームを組めず休部した。代わって、男子野球部が市内大会完全制覇を果たすなど大活躍を見せた。
 平成9年(1997)4月、第25代校長但 野留男校長迎え、いよいよ開校百年の年を迎える。児童数は4学級24名である。協賛会の掛け声の下、地域と学校が一体化し、精力的に業務を進める。6月に は、第10回の百年記念の両町内会学校合同運動会が行われ、子どもたちが百年を祝うマスゲームを披露し、地域の人々から喝采を受ける。また、これに合わせ てPTA・教職員で校門を飾るアーチも制作された。
 常磐二世紀に向け、教師と子ども・学校と地域が一体となった教育活動が新たなスタートを切ったのである。

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懐かしの旧校舎です。(平成元年6月撮影)

1926年
4月班渓青年訓練所が併設される
1941年
3月国民学校令により、班渓国民学校となる
1947年
5月1日学制改革により、中学校を併置し、班渓小中学校となる
1952年
9月1日常磐小中学校となる。
1988年
3月中学校が閉校し、常磐小学校となる

- 平成時代 -

1991年
2月新校舎落成
1997年
9月開校100周年記念式典北海道交通安全協会賞受賞
1998年
8月アスレチック遊具施設完成
2001年
9月コンピュータ教室設置
2002年
4月完全学校 5 日制開始
2003年
4月知的障害児学級設置
2007年
4月2学期制実施
9月第56回全道へき地・複式教育研究大会芦別大会会場校
10月開校110 周年記念式典
2008年
4月ヘルメット着用義務化
12月サケの発眼卵孵化放流事業
2009年
4月サケの稚魚放流式
2010年
1月電子黒板 3 台設置
4月サケの稚魚放流式
2011年
4月サケの稚魚放流式
9月コンピュータの更新
2012年
4月サケの稚魚放流式

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